第八番 豊山 長谷寺(ぶざん はせでら)
本堂も本尊も大きい。そこまでの長い登廊を行く。山を背にした谷間に広がり、西国札所でも大寺の一つ。ゆるやかな石段沿いに白壁の築地塀が延びる。ボタンの花の名所として有名だが、他にも多彩な花々が美しい寺を飾る。長谷観音と花の寺である。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。
長谷寺の参道に番外 法起院があるので合わせてお参りしておきましょう。
長い登廊、出迎えてくれます(^^)/
御詠歌 いくたびも 参る心は はつせ寺 山もちかいも 深き谷川
歴史
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺 であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。
住所
〒633-0112 奈良県桜井市初瀬731-1
交通 近鉄 大阪線 長谷寺駅下車20分
駐車場 有 (普 70〜80台)
拝観料
大人500円, 小人250円/団体30名以上 大人450円,中・高生350円,小学生200円
拝観時間
(4月〜9月)8:30〜17:00,
(10月〜3月)9:00〜16:30
ただし「ぼたん祭」期間は7:00〜18:00まで延長
納経時間 同上
電話 0744-47-7001
ウェブサイト http://www.hasedera.or.jp
第七番 東光山 岡寺(龍蓋寺)(とうこうざん おかでら)
第七番 東光山 岡寺(龍蓋寺)
(とうこうざん おかでら)
日本最初の厄除け霊場岡寺は飛鳥の東、山の中腹にあり、坂を上ると重要文化財に指定されている鮮やかな朱色をした仁王門があらわれる。本堂などはその奥、石垣の上に建ちならぶ。本尊、如意輪観音座像は塑像(土で造られた仏様)で、弘法大師の作と伝えられ、塑像としてはわが国最大の仏像である。また本尊は厄除け観音で知られ、古来より信仰を集めている。4月中旬からはシャクナゲの花約3000株が咲き誇り、桜、サツキ、秋には紅葉も美しい。さまざまな伝説を残した名僧、義淵僧正が創建した。
御詠歌 けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり
歴史
『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。この時、同時に龍門寺なども建立された。史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(『正倉院文書』)である[2]。
現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置するが、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。寺跡は平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定された。
現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。
・住所
・交通
近鉄橿原神宮前駅東口から奈良交通バス岡寺前行き16分 岡寺下車、徒歩10分 (近鉄岡寺駅からはバス・タクシーの便は無い)
・駐車場 無 (但し民営駐車場有約50台)
・拝観料一般 (大学生以上): 400円 (団体50名以上 320円)
高校生: 300円 (団体50名以上 240円)
中学生: 200円 (団体50名以上 160円)
・拝観時間8:00〜17:00, (但し12/1〜2/末日 8:00〜16:30)
・納経時間同上
・電話0744-54-2007
・ウェブサイトhttp://www.okadera3307.com
第四番 槇尾山 施福寺(槙尾寺)(まきおさん せふくじ)
(まきおさん せふくじ)
施福寺は槙尾山に有り 南に岩湧山 東に金剛山 北に大阪湾が眺望でき 夏山も冬山もよし 春は桜 秋は紅葉が楽しめます。花山法皇足守の馬頭観音足腰を守り、長寿延命、身体健全の守護尊 方違大観音 転勤 転職 旅行 結婚等の厄除
入り口から本堂までの山登りが結構辛いです。
サンダルで登ろうとしている方がいましたが
運動靴は必須です。あと水分補給も必要。
御詠歌 深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる
歴史
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代、播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。
札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間、熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、寺僧たちはそれを拒んだ。すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。
縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時、槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている。縁起には、延喜16年(916年)、定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、これも史実か否か不明である。
以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く、判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。
中世以降編集
正嘉年間(1257 - 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている[4]。仁治年間(1240年 - 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。
南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603年)に伽藍が復興された。
近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間頃に真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
・住所
・交通
南海難波駅内 泉北高速、和泉中央駅下車槙尾山口行きの南海バスで槙尾中学校前で下車 シャトルバスに乗換え終点で下車、徒歩約30分 南海本線泉大津駅よりバス槙尾山行 約1時間
・駐車場 有 (約100台)
・拝観料 無し
・拝観時間
12月1月2月末日 8:00〜16:00
3月〜11月末日 8:00〜17:00
・納経時間 同上
・電話0725-92-2332
第三番 風猛山 粉河寺(ふうもんざん こかわでら)
第三番 風猛山 粉河寺
(ふうもんざん こかわでら)
粉河寺は和歌山県の北部を流れる紀ノ川の北岸にあり、 最寄駅JR和歌山線粉河駅から大門まで門前町を形成し、約800mの道程である。
きれいな石垣、お食事処で食べた竹の子がトッピングされたざるそば、美味しかったです。
御詠歌 父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や
歴史
草創の縁起は『粉河寺縁起絵巻』(国宝)に伝えられている。
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。
以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。西行の『山家集』や、架空の物語である『うつほ物語』『狭衣物語』にも粉河寺への言及があるなど、遅くとも平安時代中期・10世紀には観音霊場として著名であったことがわかる。平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀州に攻め入り、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失した。この時、粉河寺縁起絵巻も焼損した。正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の江戸時代の再建である。
大門から南に約1キロメートル続くJR粉河駅前通は、門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。
・住所
・交通
電車:JR和歌山線粉河駅下車 門前町徒歩15分
バス:JR阪和線熊取駅下車 粉河行乗車 45分
バスの時刻等のお問い合わせ 0736-75-2151:和歌山バス
車:阪和自動車道 泉南または和歌山インターからいずれも約35分
・駐車場 有 (100台)
・拝観時間 8:00〜17:00
・納経時間 8:00〜17:00
・電話0736-73-4830, 0736-73-3255
・ウェブサイトhttp://www.kokawadera.org/
第二番 紀三井山 金剛宝寺(紀三井寺) (きみいさん こんごうほうじ)
(きみいさん こんごうほうじ)
春は早咲の桜の名所として和歌の浦の絶景を望む境内には、踵を接する善男善女は数えるにいとまなく、観音信仰の隆昌に伴い、ご宝前には日夜香煙の絶え間がありません。木造立像では日本最大となる大千手十一面観音像が、平成20年に開眼されて、注目を集めています。
楼門をくぐると、少し急な231段の階段がそびえ、階段をのぼりきると、美しい和歌浦港が遠望できます。
私が、西国巡礼をスタートした場所でもあり、日本最大となる大手十一面観音像は素晴らしい輝きを放っていました。
御詠歌 ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん
歴史
開創編集
伝承によれば、宝亀元年(770年)、唐僧の為光が、日本各地を行脚していた時、名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって名草山に登った為光は、そこで金色の千手観音を感得した。為光は自ら十一面観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置し、千手観音を秘仏として納めたたのが紀三井寺の始まりであるという。名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれるが、『紀伊続風土記』は付近の旧地名「毛見(けみ)」が転じたものと伝える。
中世から近世編集
紀三井寺の中世の寺領と記録について、『紀伊続風土記』は次のように伝える。
〔前略〕合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す。 — 紀伊続風土記
このため、中世の紀三井寺について詳しいことは分からないが、各種の資料から断片的に見出される記述からは、日前國懸社と深い関係にあると見られていたことが分かる。嘉禎4年(1238年)の日前宮文書によれば、毛見郷は日前宮領に属し、名草山を「三井之神山」と称しているほか、日前國懸社神主家57代国造紀俊文の詠歌にも名草山の名が見える。また、応永年間(1394年~1428年)には、日前國懸社の祭礼に警固を兵士を送ったという。その他、興国寺の開山たる法燈国師覚心が招かれて、紀三井寺の南に、紀三井寺僧妙蓮のために建立された報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと興国寺の記録にある。
前出の通り、中世紀三井寺の寺領は49町を算したが、紀州攻めの際に没収されて失われた。慶長6年(1601年)、浅野幸長は紀三井寺村内の13石を寄進した。次いで、紀州徳川家 初代の徳川頼宣は8石や燈明料を寄進したほか、境内の地子を免じ、正保4年(1647年)には境内における殺生を禁じた。
室町時代には西国三十三所ないし熊野参詣の隆盛により、多くの参詣者が訪れた。中世の紀三井寺は多くの僧侶・子院が一体混然として一山を形成する一山寺院であって、妻帯僧が寺僧となり、本堂脇には造営・修造のための勧進を担う穀屋(今日の穀屋寺)があったという。寺僧の中からは、法用を勤める法橋として年老14名が充てられ、これを当寺の詠歌の詠み手でもある花山院の永宣旨によって許可されたというが、その永宣旨は伝来しない。穀屋は比丘尼寺であって、観音御影や牛玉宝印の木版を所持し、参詣者に配札していた。
穀屋寺には複数の勧進関連の文書が伝来する。文安6年(1449年)の勧進状は、嘉吉元年(1441年)に何らかの壊滅的打撃(おそらく南朝残党と守護畠山氏の衝突による兵火)があったことを示唆する内容が記され、諸堂を再建したものの、なおも未成であった多宝塔復興のための勧進であった。大永2年(1522年)の勧進状では、堂舎修理のための勧進を仰いでおり、堂塔の再興修復が穀屋によって担われてきたことが分かる。また、元禄11年(1698年)の「穀屋寺移転ニ付口上書」は、穀屋比丘尼の春古は秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉に臨んで山内安堵の証文を得たことにより焼討を回避した(天正13年〈1585年〉)と伝えており、このように積極的な活動を示した穀屋は、他の諸寺社にも見られるように堂舎の再興修復を通じて、それまで以上に大きな役割を果たし、寺内における地位を高めた。
秀吉の紀州攻めの翌年、天正14年に本願坊が創建され、のちに明暦年間(1655年~1658年)に護国院と改称した。のちに本坊となる護国院はそれ自体が本願勢力であり、初代の本願に任じられた良純房は、吉原村の出身で姓は林氏であったと伝えられる。近世における徳川政権の寺院政策は、当初、それに先立つ信長・秀吉のそれと同じく、武装解除と中世以来の寺領没収、および新たな朱印領の賦与であったが、のちに寛文5年(1665年)の諸宗寺院法度において一山寺院に対する統一した政策が出され、その一環として寺内秩序や勧進活動への制限が行われたことにより、本願勢力は地歩を後退させられた。紀三井寺では、宝永2年(1705年)に穀屋が山麓の楼門外に移転させられ、宝暦3年(1735年)には紀三井寺と本末関係が結ばれて、かつては寺内の子院であった穀屋はいち末寺に格下げされた。
住所
JR紀勢本線(きのくに線)紀三井寺駅 下車約10分
南海電鉄 和歌山市駅より和歌山バス海南方面行き乗車
紀三井寺バス停下車徒歩10分
駐車場 有 (約30台)
拝観料 大人一人200円 子供100円
拝観時間 8:00〜17:00 (寺務取扱等は下記納経時間内)
納経時間 8:00〜17:00
電話073-444-1002
ウェブサイトhttp://www.kimiidera.com
20180617追加
第一番 那智山 青岸渡寺(なちざん せいがんとじ)
(なちざん せいがんとじ)
那智山は熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社と那智山 青岸渡寺の一寺)の一つ。熊野信仰の霊場として長い歴史がある。もともと那智の滝を中心にした神仏習合の一大修験道場だったが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離した。今も寺と神社は隣接していて、双方を参拝する人が多い。
またミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで熊野古道、那智の滝、熊野三山は「わざわざ旅行する価値がある」三ツ星として掲載されているそうです。
本堂および宝篋印塔は国の重要文化財。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部
三重の塔と那智滝
空気感が素晴らしく、三重の塔からの那智の滝も絶景でした。
御詠歌 補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬
歴史
熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社についても創建の時期等については判然としない。伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。後に推古天皇の勅願寺となり、6世紀末 - 7世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたという。以上はあくまでも伝承であるが、那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われる。中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社とともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点であった。
明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興した。寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる。
●住所
●交通
JR京都,新大阪,天王寺より、JR名古屋より勝浦下車 路線バス、タクシーあります。
バス、自家用車は阪和自動車道からR42号線また、名古屋方面からは伊勢道勢和多気ジャンクション、熊野街道大台でR42号線に乗り那智山道へ
●駐車場 有 (附近バス50台,自家用車300台)
●拝観料 不要
●拝観時間 5:00〜16:30
●納経時間 5:00〜16:30
●電話 0735-55-0001
●FAX 0735-55-0757